ご機嫌よう。
気づいたら11月も3分の1が過ぎて、もうテストも終わっていた…!ほんで明日はすごくさむいらしくて、床の方が冷たい😖🍃
教えられたことは実践できたと思うけれど、なにせ試験時間が足りなかったのだ😥
授業で南木佳士の『天地有情』を扱ったんですけど、よく分からなかったです。いや、言ってることは分かるけど、自分に合わないというか。まあでも、全く合わない訳ではないとも思います。
本当に気に食わなかったら、関心もなくなって忘れちゃうので😮
天地有情は、大森荘蔵が晩年に記したことからの引用らしくて、世界や自然自体が感情的なのであって、世界の大きな感情の中に、一部として入りこんでいるだけの小さな感情が、私たちの抱くと思っている感情だ❗️みたいなことでした。鬱だった筆者はこの言葉に救われたらしいです。
谷底から再出発する際の、それらしい説明が、筆者にとっては天地有情だったみたいですけど、自分は既に、別のそれらしい説明があったから、合わないように感じたのかなあ…。
天地有情は、感情の原因は自分じゃなくて世界だよ、って言ってるように聞こえます。ある種の諦観のような…。筆者は「鬱の原因も私じゃないんだ」ってなって、解放された気になったということでしょうか。
でもこれって、世界が陰湿だったら、ずっと自分の感情も暗いままになっちゃう気がするし、都心部の人は身近に自然がないことが多いし、そしたらずっと、コンクリートみたいに無機質な感情を私たちが抱くことになる、かと言ったらそうでもないし😣
大森荘蔵の晩年の天地有情は、今まで立っていた認識論という立場から、一転して打ち出した考えみたいです。いままでは、私たちの意識がすべてだったのに、急に世界が全てになっちゃった、という感じらしいです。
だから、いきなり世界が全てになったのではないんじゃないかな…?もともと、意識がすべてだっただから、世界がすべてになりえたわけで。その点でやっぱり、世界が全て❗️を全面的に受け止めるのは違うような気がしちゃいますね。
とはいえ、南木佳士さんが書いた本文の中に出てきた友人も、「梅雨の日でも気分のいいときってありますけど、そういうのはどうするんですかねえ」と言っていたし、筆者も天地有情の限りではないと分かったうえで、基本的な大事な心の支えとして、天地有情を位置づけているようでした。
そういうひともいるわな😌
でも自分は❕天地有情もあって、世界に連動して自分の心がある場合もあると思いますけど、基本的に意識の方が感情の原因として信じられると思います…‼️
世界の中に何を見るのかによって、感情は変わりえて、見るものを決めているのは、やっぱり自分の意識だろうと思うんです。梅雨の日でも、例えばアジサイが雨に濡れているのに反応して、それが露に濡れて輝いてると見れば、きっといい気分になるはずだ、と信じています。だから梅雨の日でもいい気分になれるし、そっちのほうが素敵だなと思います。
今の社会に合うのも、少なくとも自分にとっては、こっちだと思うなあ。
自分の場合は鬱ではないですけど、谷底から再出発できたのは、振り返ってみると、「自分の意識が上手く働かなくなっていたせいで、陰湿なものを世界に見出して、攻撃されているような,苦しめられているような感情を抱いていたんだ。」と、それらしい説明がついてから、そうして折り合いがついてからのように思います。
上手く働かなくなってしまうのは、自分の場合は身体の不健康からだったり、そもそも当時、そのような意識自体に気づいていなくて、良い方向に働かせられていなかったからかも知れません。
こうした経験と、分断と対立が深まる今の社会の様相から、自分は明るい部分を見出せるような意識のことを信じていたいんです。
だからきっと「⋯絶望は希望に転化しうる」のでしょう。
『チ。』ではじめてこれを聞いた時、なにを言っているか分からなかった。分からなかったけど、分からなかったから、ずっと響いていて、最近になって少し、わかった気がする。
ではまたദി- ̫ -)

